アンドレア・アマティ(Andrea Amati)が歴史上にその姿を初めて現す16世紀前半から、アントニオ・ストラディヴァリ(Antonio Stradivari)が黄金期を迎えた18世紀初頭にかけて、クレモナはスペインの支配下にありました。
対して、クレモナの良きライバルとしてヴァイオリン作りが栄えたブレシアは同じ頃ヴェネチア共和国に属していました。ブレシアはクレモナから北へおよそ50kmほど離れた場所にあり、クレモナとは隣同士といってもよい位置関係にありますが、ブレシアはクレモナにとって外国だったんですね。
さて、このブレシアからさらに北東へおよそ30km進むと、サロと呼ばれる街に到着します。ガルダ湖の湖畔にあるこの小さな街からは、一人の非常に重要なヴァイオリン製作者が生まれています。ガスパロ・ベルトロッティ(Gasparo Bertolotti)、通称ガスパロ・ダ・サロ(Gasparo da Salò)です。今回のお話しの主人公は、このヴィオラ製作のマスターです。
ガスパロ・ダ・サロの生い立ちとブレシアへの移住
ガスパロは1540年5月20日に音楽家の一家に生まれています。父であるフランチェスコ(Francesco Bertolotti)は弦楽器奏者として活動するだけではなく、オルガンの技術者として教会のオルガンの調律を任せられていました。
叔父にあたるアゴスティーノ(Agostino Bertolotti)も弦楽器を演奏するだけではなく、大聖堂でオルガンを弾き、聖歌隊の指揮者も務めており、さらにガスパロの従兄弟にあたる人物も演奏家として後に名を上げています。
このような環境の中で育ったガスパロ自身も演奏者としての技術を早くから身につけていたことでしょう。実際に彼が後ほど演奏家としてヴィオローネをベルガモの大聖堂で弾いたという記録が残っています。
そんなガスパロがブレシアに移り住んだのは1561年から1563年の間だと思われます。父フランチェスコは1561年に亡くなっています。父親の死が切っ掛けとなったのでしょうか。
移住先にブレシアを選んだのは、もちろん比較的サロに近いからということもあったのでしょうが、ブレシアには当時非常に活発な音楽シーンがあったからでしょう。
ブレシアでは15世紀中頃から楽器作りが栄えており、非常に優れたヴィオールやシターンと呼ばれる楽器などが作られていました。オルガンの製作も15世紀後半から盛んに行われており、クレモナの大聖堂のオルガンもブレシアの製作者によって作られています。
父親がオルガンの技術者であったことから、ガスパロにはブレシアの楽器職人とのコネが引越しをする前から既にあったのでしょう。職人としての知識と技術も若いころから父親から習得していたと思われます。ブレシアに移ったガスパロはすぐに自分の工房を開き、結婚をしています。
工房を構えたものの…
一般的にガスパロの師匠はブレシアのシターン製作者、ジロラモ・ヴィルク(Girolamo Virch)だとされていますが、師弟関係を裏付ける記録は見つかっていません。ただ、この二人が親しい仲にあったことは確かで、1565年、ガスパロに息子フランチェスコが生まれた際にヴィルクは洗礼式に代父(ゴッドファーザー)として立ち会っています。
1568年に残された記録によるとガスパロが工房を構えてから数年間、ビジネスはあまりぱっとしなかったようです。たいした稼ぎもなく、妻と二人の息子、そして自分の妹を含めた5人家族で借家暮らしをしていました。
しかし、1588年に書かれた納税申告書には、ガスパロは借りていた工房とは別にお店付きの大きな家と、さらに農場も所有し、2人の召使いを抱えていたことが記されています。また、近郊の顧客にだけではなく、フランスでも楽器を売っていたこともこの申告書から分かります。20年の間にずいぶんと成功を収めたようですね。
その他にも弦はローマから、木材はヴェネチアから取り寄せていたことが記されています。ただし、ガスパロが主に使用した木材は地元で採れたもので、貿易港であるヴェネチアから取り寄せなければいけなかったのは、パフリング用の黒檀、そしてたまに使った質の高いスプルースぐらいでした。
跡を継ぐもの
息子であるフランチェスコの他、少なくとも4人の弟子がガスパロにはいたことが分かっています。アレッサンドロ・ディ・マルシリア(Alessandro di Marsiglia) 、ジョヴァンニ・パオロ・マジーニ(Giovanni Paolo Maggini)、ジャコーモ・ラフランキーニ(Giacomo Lafranchini) 、そして、バティスタ(Battista)とだけ名前が判明している職人です。中でも特に有名なマジーニは、1598年から1604年までガスパロのもとで働いていました。
仕事はその後も順調だったようで、マジーニが弟子入りした翌年の1599年にガスパロはまたもや家を購入しています。
1609年4月14日にガスパロ・ダ・サロは他界しています。 本来なら、幼い頃からガスパロを手伝ってきた息子のフランチェスコが跡継ぎとしてブレシアの伝統を支えていくはずでした。
しかし、彼はマジーニとしばらく一緒に働いた後、特に目立った活動はしていません。父親が残した遺産が十分にあったため、これ以上楽器を作ることに意味がないと感じたのでしょうか。
そんなフランチェスコに代わり、ブレシア派を代表し新境地を開いていくことになったのはマジーニでした。
ヴァイオリンの発明者?
ヴァイオリンを発明したのはガスパロ・ダ・サロだとされていたことが過去にはありましたが、現在はアンドレア・アマティがガスパロに先駆けてヴァイオリンを作っていたということが明らかになっています。
ガスパロと同時期にブレシアのペレグリーノ・ミケーリ(Pellegrino Micheli)とよばれる製作者が製作したヴィオラも現存しており、また、ペレグリーノはガスパロよりも20歳ほど年上であったため、ブレシアでもガスパロ以前に既にヴァイオリン属の楽器が作られていたのではないかと考えられます。
ヴィオラメーカー、ガスパロ
ガスパロ・ダ・サロといえばヴィオラをすぐさま思い浮かべる方が読者の皆さんにも多いのではないでしょうか。ガスパロに限らずブレシア派の楽器というとヴァイオリンではなくヴィオラ、というイメージがあります。なぜでしょうか?
16世紀前半のブレシアではヴァイオリン属以外の楽器も含めテノール楽器の人気が非常に高かったのですが、16世紀後半になり徐々にルネサンス音楽からバロックへと移行するにつれてより高音がでる楽器、ヴァイオリンの需要が増えていきました。
アンドレア・アマティ、そして彼の息子であるアントニオとジロラモの二人の努力によりクレモナでは早くからヴァイオリンという新しい楽器が定着していました。
しかし、ブレシアではマジーニが16世紀の終わりに登場するまでヴィオラの製作数がヴァイオリンよりも圧倒的に多く、また、そのほとんどがボディの長さが440mm以上もあるテノール・ヴィオラでした。
もちろん、絶対数が比較的多いことに加え、そのユニークな楽器としての性能の高さがブレシア派のヴィオラの評判を築きあげたことはいうまでもありません。
テノール・ヴィオラ
今回ご紹介しているガスパロの楽器もテノール・ヴィオラの一つです。ブレシアの製作者は製作年をラベルに記入することがなかったので、何年に作られたものかは分かっていません。
この楽器にはブレシア派の特徴がよく現れています。ボディの輪郭一つをとっても、大きく開いた弧を描くCバウツ、外へと伸びていくかのようなコーナーなど、非常に典型的なデザインです。
クレモナのヴァイオリン製作者はボディ自体の輪郭ではなく、その基となる内型をデザインするというやり方をとっていました。対してブレシアの製作者は型を使わず製作していたので、ボディの輪郭を直接デザインしていたようです。
すらりと長いf孔からは、楽器全体が持つ原始的な雰囲気とはうらはらに、極めてモダンな印象を受けます。ガスパロのf孔にしては器用に切られていますが、よく見ると、ところどころに勢い余ってナイフが滑ってしまった跡が確認できます。
そのf孔から息を吹きこみ脹らませたかのように、アーチは丸く、ぷっくりと膨らんだ作りになっています。その断面はクレモナで使われていたような複雑な弧1を描いておらず、真円の一部を切り取って使ったような弧になっています。
パフリングは黒い部分に硬い黒檀が使われていることもあり、ところどころで上手く曲がらずに折れていたり、波を打ってうねうねしている箇所があります。しかし、パッと見る限りではガスパロが持つ「粗く不器用な製作者」という評判からは想像できないほど上手く埋めこまれています。
貴重なことにネックのみならず、指板とテールピースもオリジナルなのですが、残念なことに楽器そのものの保存状態は良いとはいえません。修復がなされてはいますが、ところどころにかなり酷い虫食いの形跡があり、またスクロールにも過去に真っ二つに折れた跡が残っています。
先ほど少し触れましたが、ブレシア派の楽器は外見だけではなく、作り方もクレモナ派とはかなり異なっていました。アマティの楽器には、リュート作りからヒントを得たのではないかと思われる部分が幾つか存在するのですが、ブレシア派の製作方法はヴィオール作りに直結しています。
ガスパロ、そしてアマティ一族もヴァイオリンだけではなく、ヴィオール属の楽器も製作していましたが、古めかしく昔ながらの作りをしているガスパロのヴィオールに対し、アマティのヴィオールにそのような要素は皆無です。
このヴィオラは、オックスフォードにあるアシュモリアン博物館のヒル・コレクションの一部となっています。