木村哲也
バイオリン製作家

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【名器のお話し】ジロラモ・アマティ1611年バイオリン

兄弟喧嘩のために、パートナーシップを1588年に解消してしまったアントニオ (Antonio)とジロラモ (Girolamo)のアマティ兄弟。これを機会に兄であるアントニオがヴァイオリン製作から引退してしまったために、アマティの工房はジロラモによって続けられていきます。

ジロラモは2回結婚しており、少なくとも計12人の子供がいました。そのうち、後にアマティ家随一の天才として知られるようになるのは、ニコロ・アマティ(Nicolò Amati)ですが、彼の他にもジロラモには3人の息子がいました。

その中でも特に興味深いのは、ロベルト(Robert)の存在です。

奇しくもジロラモとアントニオが別々の道を進むことになった1588年に生まれたロベルトは、アマティ家の長男として工房を継ぐことになるはずでした。ジロラモも多大な期待をよせていたことでしょう。
まだ幼いころからマエストロになるための教育を父親から受けていたのは、ほぼ確実です。

そんな彼が、父親の工房でどのような役割を演じていたかは、実際にはまだ分かっていません。しかし、20歳代半ば頃から父親の右腕として活躍していた可能性は、十分あります。今回ご紹介する1611年製のヴァイオリンにも何らかの形で関与していたのかもしれません。

不幸にも、1615年、ロベルトは兵役中にポー川で事故死してしまいます。27歳の若さでした。

ジロラモ・アマティ1611年製バイオリン正面全体像
ジロラモ・アマティ1611年ヴァイオリン

1611年にジロラモ・アマティによって作られたこの楽器は、2010年12月に英国ロンドンのオークションハウスの一つ、Brompton’s において£130,000 (約1,700万円)で取引されたものです。

現在では、ジロラモの手によるものだと認められていますが、競売にかけられた際には、慣習に従いアマティ兄弟の作品として出品されました。

ジロラモ・アマティ1611年製バイオリンスクロール右側
オリジナルではないスクロール

今からちょうど 400年前に作られたこの楽器、残念ながら渦巻きはオリジナルではなく、後に交換されたものです。損傷した渦巻きを身近にあるものと取り替えてしまうという行為が、過去には頻繁に行われていました。

たとえその代用品が、オリジナルと同一の製作者によるものではなくてもです。こういった野蛮な修理の犠牲になったのは、渦巻きだけではなく、表板や側板などが取り替えられてしまった楽器もあります。

修復の技術、そしてなによりもそのモラルが進んでいる現在では、考えにくいことです。

楽器本体、特に裏板の状態は比較的良好です。それでも、コレクターズアイテムとしてではなく、4世紀にわたり道具として使われてきた楽器だけが持つ風格をそなえています。

ジロラモ・アマティ1611年製バイオリン後ろ姿全体像
ジロラモ・アマティ1611年ヴァイオリン

このヴァイオリンの表板の厚さは中央部で約2.4mm、上下部では約 1.7mmと薄めですが、ひび割れの痕が所々に残ってはいるものの、ジロラモの特徴がよく現れた力強いアーチはそれほど歪んでいません。

表板にはよく目の詰まったスプルース、裏板には雲海を思い起こさせる杢が印象的な、板目で挽かれたメイプルの一枚板が、それぞれ使ってあります。

残念なことに、「アマティの黄金のニス」として有名なオリジナルのニスはほとんど残っていません。

ジロラモ・アマティ1611年製バイオリン表板f孔のアップ
ジロラモ・アマティ1611年ヴァイオリン

父アンドレアの時代からヴァイオリンのデザインがどのように発展していったのかに興味がある方には、まず f孔に注目してみることをお勧めします。

アンドレア作『タリーハウス』、アントニオ作『メンデルスゾーン』、そして、ジロラモのf孔を並べた写真を載せておきますので、見比べてみてください。

アンドレアアマティ、アントニオアマティ、ジロラモアマティ各自のf孔
左から) アンドレア、アントニオ、ジロラモ・アマティのf孔

徐々にノッチ、及び上部の円が小さく、そして、「羽」(ウィング)は逆に大きくなっていくのが分かりますよね。また、「脚」と「首」にあたる部分のカーブに、より丸みが帯びていくのが確認できます。

これらの変化によって、どちらかといえば上下の流れが目につく姿から、左右に幅を持った優雅な線の流れが際立つ作りになっていきます。

ジロラモ・アマティ1611年製バイオリン側面右側
ジロラモ・アマティ1611年ヴァイオリン

王室御用達ブランド、アマティ

ジロラモとほぼ同時代を生きた音楽家に、クラウディオ・モンテヴェルディがいます。作曲家として有名な彼が、クレモナ出身だったということを皆さんはご存知でしょうか?

モンテヴェルディが初めて書いたオペラ、1607年に初演された「オルフェオ」には、「小型のフレンチ式ヴァイオリン」を使うようにとの指示があります。この楽器は、通常のヴァイオリンよりも短3度高く調弦 (Bb-F-C-G)されたヴィオリーノ・ピッコロのことです。バッハのブランデンブルグ協奏曲第一番に使われているのをご存知の方もみえるのではないでしょうか。

米国サウスダコタ州にある国立音楽博物館には、ジロラモが1613年に作ったボディの長さが 266mmのヴィオリーノ・ピッコロが所蔵されており、「オルフェオ」に使われたのはまさにこのような楽器だったのではないかといわれています。しかし、何故「フレンチ式」なのでしょうか?

このコーナーでアンドレア・アマティをご紹介した際に、アマティ家の工房とフランスの宮廷に深い繋がりがあったことを述べました。1560年代にはシャルル9世のため、豪華に装飾された計38台の楽器がアンドレアによって作られています。

アマティ兄弟によってフランス王アンリ4世に納められた装飾付きのヴァイオリンも残されており、「アマティ」の名が王室御用達ブランドとしての位置を確立していたことが分かります。

これらフランス王室からの大掛かりな注文によって、世間にその名を知らしめたであろう、アマティ一族。しかも、アマティの作ったヴァイオリンのデザインは時代の最先端をいくものでした。

そんな彼らの作る楽器が、他のイタリア製のものと区別されるために、「フレンチ式のヴァイオリン」として知られていたとしてもおかしくはありません。なんにせよ、楽曲に使用する楽器にかなりのこだわりをモンテヴェルディが持っていたのは確かです。

以前取り上げたアンドレア作『タリーハウス』アントニオ作『メンデルスゾーン』など、現在の7/8にあたる大きさの楽器が実はこのフレンチ式ヴァイオリンだったとするする説があることも、ここで述べておきましょう。

度重なる悲劇

16世紀初めからイタリアは、当時ヨーロッパの主要国であったフランス、スペイン、そしてオーストリアの領土争いの場と化していました。イタリア北部に位置するロンバルディア地方は主にスペインの支配下に置かれており、中でもクレモナはポー川沿いに位置する戦略上重要な拠点として機能していました。

そんな状況の下、1628年、ポー川南岸の小国同士の小競り合いが引き金となり勃発した紛争は、以後のヴァイオリン製作にとてつもないインパクトを与えることになります。

もともと異常気象が続いて作物が不足していた上に、この紛争に参戦していた国々の軍が支配下においた街から次々と食糧を略奪。このために大規模な飢餓が発生し、多くの人々が飢え死にします。しかし、軍隊がもたらしたのはそれだけではありません。

彼らは、恐るべき死神を共に連れてきていました。

黒死病……、ペストです。

ペストに苦しんでいる人々
悲劇を生んだペスト

1629年にマントヴァ、そしてミラノを次々に襲った死の病は、翌1630年2月、ついにクレモナに到達します。その魔の手からアマティ家も逃れることは出来ませんでした。
同年8月末、既に70歳を超える高齢だったジロラモが発病し、9月2日には命を落としてしまいます。その後、ほんの数ヶ月の間にジロラモの二人の娘、そして妻の命が次々に奪われました。

しかし、不幸中の幸いとでも言いましょうか、そのころ既に老いゆく父親に代わり、類まれなる才能を発揮しつつあったニコロは、災難を免れます。

その後、クレモナからブレシアに進行したペストは、1632年、ガスパロ・ダ・サロのあとを継いで活躍していたジョヴァンニ・パオロ・マジーニ (Giovanni Paolo Maggini)の命を奪います。
ライバル関係にあったマジーニの死を知ったとき、自分がその後のヴァイオリン作りにとってどれほど重要な人物になっていたのかに、ニコロは気づいていたのでしょうか。

ニコロ・アマティ、35歳、この時、彼はクレモナのみならず、実質上イタリア唯一のヴァイオリン製作者となってしまっていたのです。

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