以前このコラムでアンドレア・グァルネリ (Andrea Guarneri)とデル・ジェスについてお話ししたことがありますが、今回のお話の中心人物はデル・ジェスの父であるジュゼッペ・グァルネリ・フィリウス・アンドレア (Giuseppe Guarneri filius Andrea)です。
ヴァイオリン製作の名家、グァルネリ一族
グァルネリといえば大抵の人が思い浮かべるのはグァルネリ・デル・ジェス (Guarneri del Gesù) ですが、グァルネリ一族からはデル・ジェスを含め計5人の製作者が生まれています。彼らの名前には似たものが多く、慣れていないと一体誰が誰なのか分からなくなってしまうので、簡単な家系図を載せておきます。この家系図にはヴァイオリン製作者として活動したグァルネリ一族の名前と、彼らの結婚相手の名前しか記されていませんので、ご了承ください。本文では混乱を避けるために主に通称を使うことにします。
「フィリウス・アンドレア」というのはジュゼッペのラベルにも使われていた「アンドレアの息子」という意味のラテン語です。グァルネリ・デル・ジェスの本名はバルトロメオ・ジュゼッペ (Bartolomeo Giuseppe) ですが、生前彼はただ単に父親と同じくジュゼッペを名乗っていたので、親子を区別するためにも父親はフィリウス・アンドレア、息子はデル・ジェスと呼ばれるようになりました。
フィリウス・アンドレア、本名ジュゼッペ・ジョヴァンニ・バティスタ・グァルネリ (Giuseppe Giovanni Battista Guarneri)は、1666年に生まれています。父はグァルネリ家の創始者でありニコロ・アマティの右腕として活躍したアンドレア・グァルネリ (Andrea Guarneri)、そして母はアンナ・マリア・オルチェリ (Anna Maria Orcelli)。アンナ・マリアは当時ヴェニスやパルマで活躍していたプロの音楽家と親戚関係にありました。家庭内に音楽の溢れる環境だったことでしょう。フィリウス・アンドレア、そして兄のピエトロ・オブ・マントゥア (Pietro “of Mantua” Guarneri) は、高度な楽器製作の技術を身につけていただけではなく、ヴァイオリニストとしてもかなりの腕前を持っていました。兄弟共に楽器職人としてだけではなく、プロの演奏家としても活動しています。
特にピエトロは音楽家としての才能に恵まれていたようで、1680年頃に宮廷に仕えるプロの演奏家としてマントヴァに移住しています。彼はそこで自分の工房も開き、ヴァイオリン奏者と製作者としてのキャリアを見事に両立させました。
ピエトロがマントヴァに移り住んだのと同じ頃、入れ替わるように、フィリウス・アンドレアは父親の仕事を手伝い始めています。跡を継ぐはずだった長男が家を飛び出してしまったので、弟のフィリウス・アンドレアが跡継ぎとして鍛えられることになりました。一体家族はどんな気持ちだったのでしょうね。父アンドレアはピエトロが家を見捨てたことに対して、かなりの失望を味わったことでしょう。苦い思いは死ぬまで消えることがありませんでした。
ストラディヴァリの台頭とアマティ、グァルネリ家の衰退
この1680年にもう一つ、その後のグァルネリ家の運命を決めたと言っても過言ではない出来事が起こっています。
アントニオ・ストラディヴァリ (Antonio Stradivari)がグァルネリの家から僅か数件先の建物に引越しをしてきたのです。
フィリウス・アンドレアの父、アンドレア・グァルネリは数多く存在したニコロ・アマティ(Nicolò Amati)の弟子の中でも最も忠実だった製作者です。アマティの家とグァルネリの家は近接しており、またニコロに息子のジロラモ二世 (Girolamo II Amati) が生まれるまでは、アンドレアがニコロの後継者として育て上げられていたとも思われ、アマティ家とグァルネリ家の間には強い絆がありました。老いゆくニコロに代わり彼の名声を引き継ぐべきだったのは、本来ジロラモ二世とグァルネリ親子であったと言ってもおかしくはありません。
ところが、そんなところにストラディヴァリが現れたのです。最高のヴァイオリン製作の技術だけではなく、鋭いビジネスセンスをも持ち合わせた彼が、アマティとグァルネリ一族を追い越し名実共にクレモナ随一のヴァイオリン製作者になるのには、さほど時間がかかりませんでした。
ストラディヴァリの成功によってアマティ、グァルネリの両家は経済的に圧迫されることになります。邪魔が入ったと言うと聞こえは悪いですが、アマティとグァルネリの立場から見るとそうなりますよね。
フィリウス・アンドレアは1690年にバーバラ・フランキ (Barbara Franchi)と結婚しています。二人の間には計6人の子供が生まれていますが、幼少時代を無事に生き延びたのはたったの3人。しかも、その3人のうち、長男アンドレアも15歳の時に死亡しています。残ったのは、次男ピエトロ・オブ・ヴェニス (Pietro “of Venice” Guarneri)と末っ子のデル・ジェス。ピエトロは1695年に、デル・ジェスは1698年にそれぞれ生まれています。
父アンドレア・グァルネリの遺言
デル・ジェスの洗礼式にゴッドファーザー(代父)として立ち会ったのは叔父にあたるピエトロ・オブ・マントゥアです。甥の誕生にマントヴァから駆けつけたのでしょうか。愛を感じますね。しかし、実のところピエトロがクレモナに来ていたのには他に理由があったようです。
その理由とは、アンドレア・グァルネリの財産の相続をめぐる話し合いです。この時、アンドレアは75歳。既に幾つかの遺言書を作成しており、家族共々、死期が迫りつつあるのを感じていたことでしょう。
アンドレア自身の願いは、彼の死後、資産は全てピエトロとフィリウス・アンドレアとの間で平等に分配されること、ただし工房とそのビジネスはフィリウス・アンドレアの手に委ねられることでした。しかし、どうもその分配方法について兄弟間で少しもめていたようです。
デル・ジェスが生まれたまさにその日、ピエトロとフィリウス・アンドレアの二人は解決策となる取り決めを交わしています。驚いたことに、ピエトロが自ら相続権を放棄することにしたのです。そのかわりに、フィリウス・アンドレアはピエトロに賠償金を支払うことになるのですが、どう考えてもフィリウス・アンドレアにとって条件の良すぎる話に聞こえます。ピエトロは、自分の代わりに家業を継ぐことになった弟に引け目を感じていたのでしょうか?
どうやら、アンドレアの資産には、一家が住んでいた隣接する二件の建物以外、特に価値のあるものはなかったようです。しかし、既にマントヴァに落ち着き、それなりに安定した生活を送っていたピエトロにとって、クレモナにあるグァルネリの家は必要ありませんでした。しかも、資産を相続することで発生する様々な義務も煩わしいものです。
そんな理由で、ピエトロがちょっとした賠償金と、一族との縁を実質上絶ってしまうことで得られる自由を選んだのは、ごく自然なことだったのかもしれません。この取り決めにより、一族の長としての責任はフィリウス・アンドレアが背負うことになります。
この取り決めが交わされた僅か数ヶ月後の1698年12月にアンドレア・グァルネリは他界しています。
1700年代に入ると、度重なる紛争、軍隊による支配、そして洪水と、次々に起こる不幸な出来事によりクレモナも含めた北イタリアのロンバルディア地方の経済は大打撃を受けます。また、1713年にクレモナがオーストリアの支配下に置かれると、アルプス一帯で作られた安い楽器が大量に流入してくるようになりました。
このような厳しい状況のなかで、クレモナで唯一成功していたのはストラディヴァリの工房だけです。今ではグァルネリ一族の筆頭となったフィリウス・アンドレアも苦戦を強いられていました。
1715年、フィリウス・アンドレアは多額の借金を隣人の鍛冶屋レオナルド・ローラからしています。ローラがフィリウス・アンドレアに貸したお金の出処を辿ると、ある人物に行きあたります。一体誰でしょう?
なんと、アントニオ・ストラディヴァリなんです。グァルネリは間接的にではあるにしろ、ライバルであるストラディヴァリからお金を借りていたんですね。フィリウス・アンドレアはそのことを知っていたのでしょうか。二人がお互いに友好的であったか敵対していたかは分かりませんが、フィリウス・アンドレアにとって良い気分のすることではなかったはずです。
フィリウス・アンドレアか、デル・ジェスか
今回ご紹介しているのは、フィリウス・アンドレアが、借金をした翌年1716年に製作したヴァイオリンです。19世紀後半から20世紀前半に活躍したパリの製作者兼ディーラーにちなんで『セルデェ』(Serdet)という名がついています。
フィリウス・アンドレアの作品からは、様々な製作者の影響を見ることが出来ます。アマティ、そして父親のアンドレア・グァルネリから影響を受けたのはもちろんですが、彼は他の誰よりも逸早くストラディヴァリの良さに目をつけて自分のスタイルに取り入れています。近所で大成功しているライバルになんとか追いつこうとしていたのでしょうか。
このコラムで取り上げた『プリムローズ』と呼ばれるアンドレア・グァルネリ作のヴィオラと比べてみてください。『プリムローズ』は、その大部分を当時31歳だったフィリウス・アンドレアが父アンドレアのもとで作ったとされており、このヴァイオリンとの共通点が見受けられます。
フィリウス・アンドレアが関わっているとはいえ、あくまでも『プリムローズ』はアンドレア・グァルネリの作品として扱われています。対して『セルデェ』は、過去にグァルネリ・デル・ジェスの作品として鑑定され売買されたことが幾度かあります。フィリウス・アンドレアの楽器には、このような扱いを受けた、または、いまだ受けているものがいくつか存在します。
もちろん、『セルデェ』が作られた1716年にはデル・ジェスは既に18歳になっていたので、父親の仕事を手伝っていたことでしょう。しかし、フィリウス・アンドレアの工房で作られた、いかにもフィリウス・アンドレア的なヴァイオリンを、若きデル・ジェスの作品と言い切ってしまうのには、流石に無理があります。
このようなことが起こるのは、同じヴァイオリンでもフィリウス・アンドレアとして売るよりもデル・ジェスとして売ったほうが遥かに高い値段で売れるからです。人に欲があるゆえなのでしょう。幸い、このような風潮は現在薄れてきています。
繰り返される歴史
『セルデェ』が作られた翌年の1717年、ピエトロ・オブ・ヴェニスはクレモナからヴェネチアへと移り住んでいます。既にフィリウス・アンドレアの長男アンドレアは死亡していましたから、ピエトロがグァルネリの工房を継ぐはずでした。しかし、お金のやりくりに苦しむ父親の姿を見ながら育った彼は、クレモナに留まり家業を継ぐことにどうしても耐えられなかったのでしょう。
40年近く前に跡継ぎの座を捨て新天地を目指した叔父、もう一人のピエトロと同じように、彼もまた弟に一族の運命を託し、新しい生活を手に入れるために去っていったのです。父フィリウス・アンドレアはまるでデジャヴを見ているかのような気分だったのではないでしょうか。
その後、ピエトロ・オブ・ヴェニスはヴェネチアで成功を収めるわけですが、フィリウス・アンドレアはローラから借りたお金がもとになり、次第に借金地獄の深みにはまっていくことになります。貧困に苦しみながらも高品質の楽器を作り続けた彼ですが、この先には悲しい結末が待っていました。