木村哲也
バイオリン製作家

〒195-0072
東京都町田市金井3-10-5

11 am - 7 pm
※要予約

contact@atelierkimura.com

050-3503-1742

【名器のお話し】アントニオ・アマティ1588年『メンデルスゾーン』

以前ご紹介した「ヴァイオリンの父」、アンドレア・アマティには5人の子供がいました。アポロニア(Apollonia)、エリザベッタ (Elisabetta)、ヴァレリア (Valeria) の3人の娘、そして、アントニオ(Antonio)とジロラモ(Girolamo、又はラテン語で Hieronymus) の2人の息子です。

このアントニオとジロラモが、通称「アマティ兄弟」(the Brothers Amati)として知られるアマティ家2代目のヴァイオリン製作者です。今回はこの二人を中心としたアマティ一族のお話しです。

アントニオ・アマティ1588年製のバイオリン『メンデルスゾーン』の正面の全体像
アントニオ・アマティ1588年『メンデルスゾーン』

アマティ兄弟: アントニオとジロラモの誕生

なぜ「アマティ兄弟」なのでしょうか?

もちろん、それは彼らが血のつながった兄弟であったからなのですが、その他にもこの二人が共同して楽器を製作、そして工房を経営していたからだという理由があります。彼らの楽器には通常、「Antonius & Hieronymus Fr. Amati」というようにアントニオとジロラモの名前が揃って記されたラベルが貼られています。

残念ながら父アンドレアと同様、アントニオについての記録はあまり残っていませんが、1556年に徴兵のためにクレモナで編集された名簿には、「リュートを作るマエストロ」としてアントニオの名が登録されています。

リュートと聞いて少し不思議に思う人がいるかもしれません。急速に市民権を得ていったとはいえ、当時のヴァイオリンは比較的新しい楽器。まだその全盛期にあったリュートとは違い、ヴァイオリンという言葉自体があまり普及していなかったようです。

実は、現在も『ヴァイオリン製作者』にあたるイタリア語は『Liutaio』で、こちらの語源も『リュート作り』です。

当時徴兵の対象になったのは16歳から50歳までの男性だったので、この時点でアントニオは少なくとも16歳、生まれたのは遅くとも1540年になります。既にマエストロを名乗っているからには、もう数年ほど早く生まれていたのでしょう。

アントニオの弟ジロラモが生まれたのは、1584年に書かれた委任状にジロラモの年齢が 23 歳だと記録されていることから、1561年のことだと分かるのですが、どうやらこれもそう単純な問題ではなさそうです。

というのも、ジロラモが一人目の妻であるルクレツィアと結ばれたのが 1574 年だという記録が残されているからです。1561年に生まれていたとしたら、なんとジロラモは13歳で結婚(!!!)したことになります。全く不可能ではないですが、考えにくいことですよね。

どちらにせよ、アントニオとジロラモの年は少なくとも十数年以上離れていたいたことは確かです。おそらく、腹違いの兄弟だったのでしょう。

アントニオ・アマティ1588年製のバイオリン『メンデルスゾーン』の後ろ姿の全体像

アントニオの台頭とアマティの新たな時代

アンドレアのもとで幼い頃から弟子として腕を磨いていたアントニオですが、1560年代に入ると彼独自の「癖」がアンドレアの作品に顕著に現れてきます。

ただの見習いとして父親の手伝いをするだけではなく、立派な一人前の職人として認められ、楽器の製作過程でより重要な役割を果たすようになっていたのでしょう。

1560年代後半からアンドレアが亡くなる 1577年までの間にアマティの工房で作られた楽器は、アンドレアのラベルが貼られてはいますが、実際には主にアントニオの手によるものです。

ジロラモが製作者として働き始めたころには、アマティの工房の主権はアンドレアからアントニオに既に移りつつあったため、ジロラモの師匠は父親ではなく、むしろ兄の方だったのでしょう。

どちらかといえばアンドレアの作風に忠実なアントニオの楽器と比べ、ジロラモの作品が実験的な要素をより多く含むのも、彼が父親から直接教わらなかったことに関係しているのではないでしょうか。

アントニオ・アマティ1588年製のバイオリン『メンデルスゾーン』のスクロール正面
アントニオ・アマティ1588年『メンデルスゾーン』

アマティ兄弟の亀裂

アンドレアの死後、アントニオとジロラモは父親の遺産を分けあい、あとを継いだ工房を共に盛り立てていきました。二人の才能溢れる職人が作るヴァイオリンは、常に高性能で世間の評判も上々。

しかし、二人の仲は必ずしも良いものだったとは言えないようです。

兄弟の関係に致命的な亀裂が生じていたことが明らかになるのは1588年のこと。この年、アントニオとジロラモはパートナーを解消し、別々の道を進むことになります。

確執の原因は、はっきりしませんが、お金が絡んでいたことは間違いありません。どうやらアントニオはジロラモに多額のお金を請求していたようです。

それも、ジロラモの初妻と後妻がジロラモと結婚した際に持ってきた持参金をです。

結局、ジロラモはそのお金を支払うことになるのですが、アントニオはその後、請求額の半分をジロラモと一人目の妻との間にできた子供のために払い戻すことに同意しています。ただし、その代わりにジロラモは彼が持っていた物件の権利を半分、アントニオに譲るはめになるのですが。

父親が興したビジネスを継いで兄弟でパートナーとして経営するも、意見のくい違いやお金がもとで衝突をし喧嘩別れ。現在でもよくあるような話ですが、彼らが残した高尚な作品群からは想像しにくい妙に生々しい話です。

私たちは、歴史に残る巨匠たちをことあるごとに伝説の英雄かのように崇めてしまう傾向にありますが、蓋を開けてしまえばなんてことはない、所詮彼らもただの人の子だったんですね。

アントニオ・アマティ1588年製のバイオリン『メンデルスゾーン』のスクロール側面

この時パートナーを解消するにあたって、製作に必要な道具や工房を経営するために必要なものを全て二人の間で分け合うことになります。どのように二等分するのかを決めるのはジロラモ、そしてそのどちらを取るかを選ぶのはアントニオというやり方で分けるようにとの命令がくだっています。

ケーキを2つに切るのは弟だけれど、最初にどっちが良いか選べるのはお兄ちゃんだよ、ということですね。天下一品の大岡裁きとでも言いたくなります。

それまで兄弟で共有していた家と工房、そしてそのビジネスの権利は、アントニオが自分の分をジロラモに売ってしまうことで解決されました。売買が合意された後、短期間アントニオは今まで通り家と工房を使用することが認められていますが、2ヶ月後には家も工房も立ち去るようにとの約束が交わされています。

面白いことにこの2ヶ月の間、ジロラモは工房で何も売ってはいけないことになっています。アントニオの事実上の店閉まいセールを邪魔するなということですね。

その他にも断った際の罰金を脅しに、公証人の前で仲直りすることを宣言させられています。兄弟の仲はかなり酷い状態だったのでしょう。

この出来事以来、アントニオは製作活動からほぼ完全に身を引いています。父親の代から続いているアマティの工房はジロラモによって続けられていくのですが、喧嘩別れをしたにもかかわらず、彼は自分と兄の名前の両方が入ったラベルを使い続けます。

既に一つの「ブランド」として確立していた「Antonius & Hieronymus Fr. Amati」の名を変えると、売上に影響を与えると考えたのでしょうか。工房が成功していたのは、自分ではなく兄の名前がよく知られていたからだと分析したのかもしれません。一時の感情に流されない冷静な性格が窺えます。

アントニオ・アマティ1588年製のバイオリン『メンデルスゾーン』の表板f孔のアップ
アントニオ・アマティ1588年『メンデルスゾーン』

『メンデルスゾーン』とブラザーズのラベル

アマテイ兄弟二人の人生の転換期となったこの 1588年に作られたのが、今回ご紹介する『メンデルスゾーン』とよばれるヴァイオリンです。『メンデルスゾーン』と聞いて「おおっ!」と色めき立った方もみえるのではないでしょうか。

しかし、このヴァイオリンはフェリックス・メンデルスゾーンが所有していたものではありません。この楽器が過去にメンデルスゾーン一族のもとにあったことは確かですが、残念なことにいつ誰が所有していたのかは、 はっきりしていません。

『メンデルスゾーン』にもアマティ兄弟の名前が共に記されたラベルが貼られていますが、その作風から実際に作ったのはアントニオだと思われます。アンドレア・アマティ作『タリーハウス』と同様、現在標準とされているヴァイオリンよりも少し小さめの楽器です。

『タリーハウス』と似ているのは大きさだけではなく、ヴァイオリン自体のコンセプトも非常によく似ています。本体の輪郭、アーチの作り、f孔、パフリング、渦巻き、どの部分をとってもアンドレアが築き上げた枠組みにそってデザインされていることが分かります。

アマティ兄弟の作品、特にジロラモが作ったものには、その大きさや外見に多様性がありますが、決してアマティ独特の持ち味が失われることはありません。これは、彼らがアンドレアから受け継いだのは、単なる楽器の設計図なのではなく、その設計の仕方だったからでしょう。また、そのデザイン法はそれだけ柔軟性のあるものだったということです。

アントニオは未婚のまま、1人の子供も持つことなくその生涯を1607 年に閉じます。奇妙なことに、兄の死後もジロラモはアントニオの名をラベルから取り除こうとはしませんでした。

パートナーを解消した時と同様、単にビジネス上便利であったから変えようとしなかった可能性は大ですが……。

ただ、ジロラモの名前のみが入ったラベルも少数存在し、そのどれもがアントニオが死ぬ直前の時期のものです。兄の命が長くないことを知って、これ以上彼の名前を使うことはできないとでも思ったのでしょうか。

ならば、なぜ、アントニオが死んでしまってから、再びアマティ兄弟としてのラベルを復活させたのでしょうか。

現実的な理由があったのか、それとも何か別の思いがジロラモにはあったのか。今となっては誰にも分かりません。

もし彼らの気品溢れる楽器を目にすることがあれば、その影にはどんなドラマがあったのか思いを廻らせてみてはいかがでしょうか?

You might be interested in …