ストラディヴァリと共にヴァイオリン作りの頂点に立つ巨匠といえば、通称グァルネリ・デル・ジェス (Guarneri del Gesù)ことバルトロメオ・ジュゼッペ・グァルネリ(Bartolomeo Giuseppe Guarneri)。
彼は、三世代に渡って続いたヴァイオリン作りの一族、グァルネリ家の一員です。グァルネリ家からは他にも4人の優れた製作家が生まれていますが、デル・ジェスのイメージがあまりにも強烈なため、グァルネリといえば自然とデル・ジェスを思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。
イエスのグァルネリ
グァルネリ・デル・ジェスとは「イエスのグァルネリ」という意味を持つあだ名です。彼のラベルに使われていた十字架と IHS のサインから後に人々が名付けました。IHS はラテン語の Iesus Hominem Salvator を短縮したもので、救世主イエスの意味を持ちます。
デル・ジェスがこのサインを使用していたのは、彼が熱心なクリスチャンだったためと捉えられがちですが、実はこれが単に工房の所在地を示したものだったのではないかという解釈が近頃はとられています。
同様のサインを用いたレリーフが工房の入り口に彫りこまれていたか、看板として掛けられていたのではないかという説です。 デル・ジェスの名にどこか伝説じみたロマンスを求める人々にとっては、現実的すぎて少し残念な話ですよね。
空白の6年
1698年に生まれたデル・ジェスは、1714年頃に父、 ジュゼッペ・グァルネリ ・フィリウス・アンドレア(Giuseppe Guarneri filius Andreæ)の弟子としてヴァイオリンを作り始めますが、そのまま製作家としての道をまっしぐらに歩んでいったわけではありません。
このころのクレモナで唯一繁盛していたのはストラディヴァリの工房のみで、隣人であるグァルネリ一家は経済的に非常に苦しい立場にありました。
1715年に父ジュゼッペは多額の借金をしています。父親が必死になって働いているにもかかわらず、暮らしは一向に楽にならない。そんな状況のなか、デル・ジェスの兄であり、同じくヴァイオリン製作者であるピエトロ・グァルネリはクレモナでの生活に見切りをつけ、1717年にヴェネチアに移住します。
そして5年後の1722年、デル・ジェス自身もカタリーナ・ロタと結婚すると同時に住み慣れたグァルネリ一族の家を離れます。この一族の家は二つの建物からなっており、新婚間もない夫婦が住んでも全く問題なかったはずです。
しかも、デル・ジェスは末っ子でしたが、1人目の兄は既に15歳の若さで他界しており、2人目の兄であるピエトロもクレモナを離れ家族との縁を断ってしまったために、彼が一族の家と仕事をそのまま受け継ぐことになるはずだったのです。どんな事情があったのでしょうか?
残念ながらこの年から1728年までの6年間、デル・ジェスがどこで何をしていたかの記録は残っていません。ストラディヴァリの成功をまざまざと見せつけられながら暮らすことに嫌気がさし、結婚したのを機会にヴァイオリン作りとはまた別の職について生きていこうと思ったのかもしれませんね。
もっとまともな仕事をしてくれと妻に脅かされたのかも…… 。
デル・ジェスの時代
デル・ジェスが再び姿を現すのが1728年。クレモナのボロ宿を住居にリノベーションするという一大プロジェクトを始めています。
この時期に彼は再びヴァイオリンを作り始めますが、本格的に自身の工房をスタートするのは、1730年の終り頃からです。同じ年には父親が病に倒れて入院するという不幸な出来事がありました。
デル・ジェスにヴァイオリン作りの道を進む決心をさせたのは病んだ父を思う心でしょうか?それとも、なにか別の理由があったのでしょうか?
約2年間にわたって完成させた宿屋のプロジェクトで彼が得た利益は、当時のストラディヴァリのヴァイオリン2つ分でしかありませんでした。もちろん、ストラディヴァリは他の製作者よりも高く楽器を売ってはいましたが、それにしても割が合わない、もしかしたら自分にもそれだけ稼げるかも、とデル・ジェスは感じたのかもしれません。
父親の、そして一族のライバルであったストラディヴァリの影から踏み出す決意をしたデル・ジェス。前述した十字架と IHS のサインを使い始めたのもちょうどこの頃です。
発展していくグァルネリスタイル
まだ独立して間もないころの彼は、父親のスタイルを受け継ぎながらも、ストラディヴァリのスタイルを取り入れようとしていました。しかし、経験を積むにつれて徐々に彼独自の創造力を発揮していきます。
そして1737年にアントニオ・ストラディヴァリが亡くなると、見えない鎖から解き放たれたかのように彼の作風はより大胆になり、さらに1740年、父ジュゼッぺが他界すると、堰を切ったように溢れ出てくるインスピレーションの波に身を任せた、まさに「ワイルドな」ヴァイオリンを生み出していきます。
ワイルドな、とはいっても誤解しないでください。デル・ジェスは、アマティから受け継がれた「伝統」という枠組みを壊していったわけではありません。あくまでも枠組みの中から、どれだけその限界を押し広げることができるかを試していたのです。
つい押し広げ過ぎて枠が壊れてしまったこともあったようですが。
名器『ヴュータン』
1740年以降のデル・ジェスはブレシア派のヴァイオリン(ガスパロ・ダ・サロやマジーニが有名) に見られる要素を積極的に自分の楽器に取り込んでいきました。彼の作品のなかでもこの試みがもっとも顕著に現れているのが、ここでご紹介する『ヴュータン』(Vieuxtemps)、1741年頃に作られたヴァイオリンです。
気迫のこもった豪快な f孔、端から端までたっぷりと膨らんでいるアーチ(隆起)、そして両端を少し引き伸ばしたかのような輪郭。全てクレモナの伝統に基づいてデザインされてはいますが、ブレシア派の影響を強く匂わせています。
今までと同じ型やパターンを用いながらも、それらを柔軟に適応させることでダ・サロをコピーしようとした。そんな印象を受けます。輝かしく華やかなクレモナの楽器と比べて、ゴシック調の暗さを持つブレシアの楽器。
デル・ジェスはその陰りを取り入れることで、闇の中に射す一筋の光を再現しようとでもしたのでしょうか。
古いヴァイオリンと聞くと、どうしても枯れた音色を思い浮かべてしまう人が多いと思いますが、『ヴュータン』のそれは実に瑞々しく、現役のアスリートのような躍動感に溢れています。それも、決して勢いがあるだけではなく、どこか優しげで儚さをも含めえる表現力豊かな楽器です。
その音色を体感するのは、まるで力強くそびえ立つ巨樹のもとで常に表情を変えていく木漏れ日を浴びる様。まさにソリストと共に人生の喜怒哀楽を歌いあげるために生まれてきたヴァイオリンといえます。
名前の由来
この楽器の名前になっているのは、19世紀に活躍したベルギー出身の音楽家アンリ・ヴュータン (Henri Vieuxtemps)です。アンリはこの他にも2つのグァルネリを所有していたのですが、そのうちの1つは『元ヴュータン』(ex-Vieuxtemps)の名で知られており、しかも作られた年が同じ1741年です。
ややこしいですね。
アンリは1878年に書いた手紙でこの『元ヴュータン』を「20年間を共にしたかけがえのない友」だと記していますが、実は1870年頃『ヴュータン』を手に入れるために売り払ってしまっています。「かけがえのない友」と引換に手に入れたヴァイオリン、『ヴュータン』との出会いは、当時50代を迎えたアンリにとって新たな恋の始まりだったのではないでしょうか。
それも熱烈な。
世界で一番高いヴァイオリン
『ヴュータン』は2012年末にJ&A Beareを介して現在の所有者に売られています。皆さん、いくらで売れたと思いますか?
正確な値段は公表されていませんが、12〜15億円の間だそうですよ。
現時点(2019年)で一番高いヴァイオリンになります。一番はストラディヴァリウスじゃないのか、と驚かれるかたもいるでしょう。
しかし、一番高いとはいっても、実際に取引が行われた楽器のなかでは、ということになるので、もしもオックスフォードのアシュモリアン博物館にあるストラディヴァリウス『メシア』(メサイア)が売りにだされたら、それこそ記録的な値段になることは間違いありません。
こういった◯◯億円という値段を見聞きしたとき、どう思われますか?
高すぎでしょうか?
確かに、ヴァイオリンを音楽を生み出すためのただの「道具」として捉えると、高すぎると感じるでしょうが、芸術的な価値を持った「アンティーク」として捉えると妥当な値段なのかもしれません。
高いとはいっても一部の絵画や彫刻などに比べるとまだまだお得だともいえます。しかし……、一般人の我々にとってはやはり高嶺の花ですよね。
ただでさえ稀少なデル・ジェス、そのなかでも特に保存状態が良い『ヴュータン』、このような楽器は今後どのように扱われるべきでしょうか?『ヴュータン』の取引に関わっていたディーラー、ジェフリー・フーシ氏は次のように語っています。
「個人的には、『ヴュータン』 が丁重に保護されながらも、年に6~10回ほどの頻度で重要な公演においてのみ演奏されるのが楽器にとって一番好ましいと思っています。ヴァイオリンのモナ・リザとまで呼ばれるほどスペシャルな楽器です。できる限り温存され、今から数百年後にも現在と変わらぬ姿、そして素晴らしい歌声で、多くの人々を感動させて欲しいと願っています」
ヴァイオリニスト、および作曲家としてだけではなく、教師としても熱心に活動し、ウジェーヌ・イザイを筆頭に数々の名演奏家を輩出していったアンリ・ヴュータンですが、残念なことに1873年、脳卒中に倒れ、それに伴い右腕の自由を失うことになります。
積極的なリハビリで一時は回復に向かいましたが、1879年に起こった再度の発作以降、二度とヴァイオリンを手に取ることはありませんでした。1881年、4度目の発作でアンリは遂に命を落とすことになります。
彼のお葬式では、『ヴュータン』 グァルネリも葬列に参加しました。漆黒のベルベットクッションの上に置かれ、イザイの手によって運ばれたのです。それほどまでに愛されていたのでしょうか。
人の命には限りがありますが、ヴァイオリンの寿命は遥かに永いものです。アンリ・ヴュータンという類まれもない音楽家は、このグァルネリの名として、そしてその中に眠る記憶の一部として現在も生き続けているのでしょう。