木村哲也
バイオリン製作家

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【名器のお話し】ニコロ・アマティ1630年製ヴァイオリン

今回は、ニコロ・アマティが 1630年頃に作ったヴァイオリンをご紹介することにします。

歴史的背景

ニコロがまだ 30代のときに作られたこのヴァイオリン、ご紹介した『アラード』と同じ型を使用して製作されています。『アラード』と比べるとどことなく作風は控えめですが、輪郭だけではなく、細部の作りも非常によく似ており、姉妹関係にある楽器といってもよいでしょう。

ただし、『アラード』が作られたのは、このヴァイオリンが作られてから約20年後。両者に見られる共通点から、ニコロがいかに彼独自のスタイルを早くから身につけ、一貫して保っていたかが分かります。

1630年といえば、イタリア北部で大流行したペストによって、クレモナでも多くの犠牲者がでた年でしたよね。ニコロも両親だけではなく、その他数人の家族、親戚を失っています。

ここで取り上げているヴァイオリンは、おそらく悲劇が起こる前に作られたものですが、そのころのクレモナを取り巻く環境は、紛争や飢餓のために既に厳しいものでした。そのような苦境にあるなか、これほどまでに完成度の高い楽器を生み出したニコロは、強靭な精神の持ち主だったのでしょう。その作風にも、当時の迫りくる影を思わせるものは全くありません。

それとも、富裕層だったアマティ家は、紛争や飢餓の影響を受けなかっただけでしょうか。1629年に、ニコロは父ジロラモと共に司祭からお金を借りていますが、たった3回で返済を済ませています。保証人なしで貸入れを許されていることも、当時の彼らがいかに信用されていたかの証でしょう。

年輪からわかること

この1630年製のニコロ・アマティには、年輪年代学の調査報告書がついています。でも、「年輪年代学」っていったいなんでしょうか?

これは、木の年輪の幅を分析、そのパターンを木の種類や産地ごとに蓄積されたサンプルのデータと照合することによって、木の年代を推定する研究です。

近年、ヴァイオリンの世界でも頻繁に活用されるようになってきており、主にヴァイオリンの製作年を裏付けする目的で使われています。最近では、鑑定書と一緒に年輪年代学のレポートがついてきたり、オークションでもその結果が頻繁に言及されるようになりました。

裏板などに使われるメイプルの年輪から年代を推定することは、現在不可能なので、スプルース(トウヒ)が使われている表板から年代を決定します。ここでポイントとなるのは、使用されている木材の一番若い (一番新しい) 年輪の年です。

ヴァイオリンの表板は、通常、丸太からくさび状に採った二枚の板を接いであるので、一番若い年輪は、表板のちょうど中心線にあたる部分に存在しています。そして、例えば、この一番若い年輪が 1660年のものだと分かれば、その表板は、1660年以降に作られたということになります。また、今まで 1700年に作られたと思われていた楽器の表板から 1780年の年輪が測定されると、「あっ、これはやばい」、となるわけです。

実際には、伐採されたときにある一番外側の年輪(一番若い年輪)が、楽器の表板になる過程で削られてなくなってるため、作られた年代と年輪年代は通常一致しません。また、1660年という数値が出てきたところで、実際に楽器が作られたのはもっと後であった可能性も存在するので、それだけで楽器の製作年を確定することはできません。
それでも、この技術を使うことで新たに得られる情報は多く、もはやヴァイオリンとは切っても切れない関係になっています。

もちろん、いいことずくめではなく、間違ったデータ解析を行ってしまうと、ひと悶着が起こることになります。2000年頃にストラディヴァリの『メサイア』の真贋をめぐって起こったひと騒動の際に論争の的となったのも、この年輪年代学です。

さて、このヴァイオリンの調査結果ですが、年輪年代は「不詳」となっています。なんだ、という声が聞こえてきそうですが、年輪年代学は蓄積されたデータをたよりに年代を決定するものなので、データ不足からこのようなことが起こることもあります。

ただ、この調査で全く成果があがらなかったわけではなく、この楽器の年輪の成長パターンは、別のニコロ・アマティ1629年製のヴァイオリンと一致することが分かりました。つまり、この2つのヴァイオリンの表板が同じ木から作られた可能性がある、ということです。

同じ木からいくつもの楽器を作るというのは、理にかなったことで、特に驚くべきことではないのかもしれません。しかし、その事実が科学を使って裏付けできるというのは、とても有意なことです。

また、それまでは、オリジナルのラベルや作風から判断していた各楽器の年代的な繋がりをまた違った角度から検証できるというのも、重要なことでしょう。

アマティの音色

皆さん、アマティと聞いて、どんな音色を思い浮かべますか?

アマティ一族が作った楽器の音色は、その外見と同じように優雅で美しいけれども、力強さに欠ける傾向があるというのが、一般的な評判です。

本当でしょうか?

確かに彼らが作ったヴァイオリン、特に初期のニコロが得意とした、小ぶりで、隆起の堀が極端に深いヴァイオリンには、そのような傾向があります。しかし、これはストラディヴァリやグァルネリ・デル・ジェスといった、まさにバリバリのソリスト向けともいえる楽器と比較したときのみにいえることで、大部分の人々にとっては十分過ぎるほどのパワーを備えた楽器です。

最近では、ギドン・クレーメルがアマティの魅力に取り憑かれ、20年近くパートナーとしてきたグァルネリ・デル・ジェス『ペイン』から 1641年製のニコロ・アマティに乗り換えています。そんな彼にもアマティの楽器では音量が足りないという先入観があったそうですが、試してみてびっくり、十分なパワーとふくよかな音色に惚れ惚れしてしまったそうです。  

ここでご紹介しているニコロ・アマティの音を私が初めて耳にしたときにも、かなりの衝撃で体が震えたのを覚えています。絹のように滑らかで、ゴムのように伸縮するその音色は、私の記憶に残る歌声のなかでも最も鮮明なものの一つです。  

ストラディヴァリとのつながり

このヴァイオリンには、年輪年代学のレーポートの他に、Max Möller によって 1970年代に発行された鑑定書のコピーがついています。それによると「ストラディヴァリの手癖が楽器のところどころに見られる」そうです……が、実際にはそのようなことはありません。

何が彼らにそう言わせたのかは、正直、謎です。 現在この楽器が作られただろうと認められている 1630年頃には、ストラディヴァリは若すぎるどころか、まだ生まれてもいませんでした。

ニコロ・アマティの弟子として頻繁に口にだされるアントニオ・ストラディヴァリ(Antonio Stradivari)ですが、彼がニコロのもとで働いていたという証拠となる記録はまだ見つかっていません。

ニコロがストラディヴァリの師だった証拠として、1666年に作られたというストラディヴァリウスのラベルがよく例に出されます。「Antonius Stradivarius Cremonensis Alumns Nicolaij Amati Faciebat Anno 1666」と書かれているこのラベルには、ストラディヴァリが、自分を「ニコロ・アマティの弟子」と記しています。

しかし、このようなラベルは、この一つしか存在しておらず、翌1667 年のラベルには、既にストラディヴァリ自身の名前のみが記されています。なぜ、アマティの弟子を名乗ることを止めたのかについては、いくつかの説があります。ここでその一部をあげてみると……

  1. ストラディヴァリはニコロの弟子だった。独立直後はその事実をラベルに記していたが、すぐに一人前としての自信がついたので、自分の名前のみを使うことにした。
  2. ストラディヴァリはニコロの弟子だったが、喧嘩別れをしてしまい、独立後すぐにアマティの弟子を名乗ることを禁止された。
  3. ストラディヴァリはもともとニコロの弟子ではなく、ラベルにそう記したのは、単にニコロの評判に便乗して売り上げを伸ばすため。ニコロがすぐに気づき、それ以降は止めてしまった。または、そう記すことを禁止された。

ストラディヴァリのファンとしては、1の説を信じたいところですが、2または3などのようなシナリオが実在した可能性も十分あります。

ストラディヴァリの初期 (1690年以前)、一般に「アマティゼ」(Amatisé)と呼ばれるこの時期の作品には、ニコロ・アマティからの影響が顕著に見られます。ただし、アマティっぽいとは言っても、どこか表面的で、悪く言えばわざとらしい感じがします。直属の弟子だとするには、製作方法も異なりすぎています。

アマティと師弟関係にあったとするには、どうしても違和感が残るスタイルの違いの数々。それらには、当時クレモナで活躍していたフランチェスコ・ルジェリ (Francesco Ruggeri)との共通点が多く、ストラディヴァリが働いていたのは、アマティではなく、ルジェリの工房だったのではないかとする説が、近年は有力です。

そのフランチェスコ・ルジェリですが、彼もまた、ニコロ・アマティに楽器作りを習ったとされる人物です。しかし、やはりストラディヴァリと同様、彼が本当にニコロの弟子だったという記録は見つかっていません。

ただし、1641年以前の、アマティ家があった小教区の戸籍簿が存在していないので、1630年から1640年までの間にルジェリが弟子として、後のアンドレア・グァルネリのように住み込みで働いていた可能性も否定できません。

ルジェリとアマティが交友関係にあったのは事実で、1658年には、ニコロはルジェリの子供の代父(ゴッドファーザー)として洗礼式に立ち会っています。
  
直接師事はしなかったにしても、ストラドとルジェリがニコロからなんらかの形で多大な影響を受けたことは、明らかです。同じ街でバイオリン作りという特殊な職業についていれば、当たり前でしょう。しかも、当時すでにアマティの工房は100年以上続き、その名を欧州に知らしめていた老舗です。

また、それまではアマティ一族内のみに留められていた彼ら独自のヴァイオリン作りの知識と技を外部の者に受け渡すことにしたのも、ニコロです。

当時、妻子のいなかったニコロが必要に迫られてしたこととはいえ、彼が下したこの決断なくしては、その後のクレモナにおけるヴァイオリン作りは、今私たちが知るものとは全くの別物となっていたでしょう。

「偉大なる師」、ニコロ・アマティ。その名声は揺ぎ無いものです。

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