今回は、グァルネリ一族の中でも最も過小評価されている製作者、ピエトロ・ジョヴァンニ・グァルネリ(Pietro Giovanni Guarneri)のお話しをしましょう。ピエトロ・ジョヴァンニは甥であるもう一人のピエトロと区別するために、通常、ピエトロ・オブ・マントゥア (マントゥアは マントヴァの英語名) とよばれています。グァルネリ・デル・ジェス(Guarneri del Gesù)もこのピエトロ・ジョヴァンニの甥にあたります。
クレモナからマントヴァへ
1655年2月18日、アンドレア・グァルネリ(Andrea Guarneri)とアンナ・マリア・オルチェリ(Anna Maria Orcelli)との間に生まれたピエトロは、1670年頃には既に父親のもとで働いていました。1670年代のアンドレア・グァルネリの作品にはピエトロの手癖が見られます。
ピエトロは長男だったので、彼がアンドレアの跡を継いでグァルネリの工房を続けていくはずでした。しかし、1677年にカテリーナ・サッサーニ(Caterina Sassagni)と結婚し、翌年に息子が生まれると、ピエトロは生まれ育った家を去っています。その後、どのような経緯をたどったかは分かっていませんが、1683年頃にはピエトロはマントヴァに辿り着いています。
彼がクレモナを離れマントヴァに移り住んだ理由は何だったのでしょうか。
クレモナから東へ約70kmに位置する都市マントヴァでは、芸術を愛したゴンザーガ家の支配のもと文化が咲き誇っていました。ピエトロと同じくクレモナ出身の音楽家クラウディオ・モンテヴェルディ(Claudio Monteverdi)は、16世紀末から1613年頃までマントヴァの宮廷に仕えており、彼の最初のオペラ、「オルフェオ」は1607年にこの地で初演されています。
しかし、盛んな音楽シーンが存在したにもかかわらず、マントヴァには名の知れたヴァイオリン製作者が一人もいませんでした。ヴァイオリン職人として一旗あげるには絶好の土地です。
対して、この頃のクレモナは優れたヴァイオリン職人で溢れかえっており、各工房間の競争は激化していました。このコラムでも幾度か述べていますが、特にストラディヴァリの躍進はめざましく、彼の活躍ぶりを目の前にしたピエトロがマントヴァに新天地を求めたのは自然な成り行きだったといえます。ピエトロが故郷を後にしたのとほぼ同じ頃、ストラディヴァリがグァルネリ家の近所に引っ越ししているのもただの偶然ではないでしょう。
新天地を求めた真の理由
しかし、ピエトロがマントヴァに住むことに決めた本当の理由は、実は他にあったようです。
アマティの伝統を継いだ父、アンドレアからの訓練を跡継ぎとして早くから受けていたピエトロは、父親を超える匠としての技術を身につけていました。
ピエトロの幼少期、そして父親のもとで働いていた時期は、グァルネリの工房が最も繁盛していた時期と重なります。ひきりなしに工房を訪れる音楽家でさぞかし賑わっていたことでしょう。グァルネリ家は絶え間なく流れる音楽で満たされていたのではないでしょうか。ピエトロの伯父がプロの演奏家であったことからも、彼が音楽的に非常に恵まれた環境の中で育ったことが容易に想像できます。
そんなピエトロは、優秀な楽器職人であると共に、卓越した腕を持つ演奏家に育っていました。どうやらピエトロがマントヴァに目をつけたのは、楽器作りで成功したかったからというよりも、プロの奏者として活躍したかったからのようです。
1685年、ピエトロは、ヴィオラ・ダ・ガンバとヴァイオリンの奏者として、モンテヴェルディの活躍によって有名になったマントヴァ宮廷お抱えのオーケストラの一員となっています。それだけではありません。1690年には、マントヴァ公、フェルディナンド・カルロ(Ferdinando Carlo Gonzaga-Nevers)から「ヴィルトゥオーゾ」に任命するとの令状を授かっています。
グァルネリ家随一の技巧派による名器
この1690年頃に作られたのが、今回ご紹介しているピエトロの作品です。
アマティのモデルから派生しながらも、一目見るだけで彼のものと分かるピエトロのヴァイオリンには特筆すべき箇所がいくつもあります。グァルネリ一族の作品の特徴は、おしのべて躍動感の湧き出る作風にありますが、それに比べ、ピエトロ・オブ・マントゥアの作品は落ち着いた作風を持ち、どっしりと腰を据えた趣を醸し出しています。玄人好みの大人の楽器といったところでしょうか。
深く鋭く彫られた窪みの部分から美しい弧を描くハイ・アーチは、実に魅力的です。ピエトロのアーチは、17世紀末から徐々にクレモナで流行りだした隆起の上がり下がりが激しくないフラットなアーチとは、対極に位置するものです。ハイ・アーチとはいっても二級品によくあるような堅苦しさは皆無です。
スリムなf字孔は、後期の作品にあるような愛らしさには欠けますが、ピエトロの好みがよく現れた典型的な作りになっています。ゆるやかに流れるラインが特に優雅で、下方の羽の角度も相まり、スラっと伸ばした脚を後ろに蹴り上げたかのような形をしています。
渦巻きは大きめで、やや重たい印象を与えますが、それも楽器全体の雰囲気と調和しており、不自然ではありません。
ピエトロのニスは、グァルネリ一族の中でも最高の質を持つといわれます。決して分厚いものではなく、木の肌に限りなく近く塗られていますが、深みがあり、まるでホログラムを見ているような錯覚を起こします。ニスを通して、重なりあう木の繊維が見えるような感じとでも言いましょうか。
表板は二枚の異なる木から採られたスプルースが継がれて使われており、裏板には半板目のメープルが二枚継いで使われています。
表板には、最近お馴染みになった年輪年代学による検証がされています。それによると、このヴァイオリンの高音側に使われたスプルースと、1699年製のストラディヴァリ『クシュテンディッケ』(The Kustendyke)の低音側に使われたスプルースの成長パターンが非常に強く一致しています。これは、これらの楽器の表板が全く同じ一本の木から採られた可能性が高いことを示しています。面白いですね。
このような、互いに離れた土地で異なる製作者によって使われた木材が、実は同じ丸太に由来するものだった、という例は他にも多数あり、最近の調査では、ストラディヴァリ作の『メサイア』のスプルースが、ブレシアでロジェリによって作られたヴァイオリンのスプルースと一致することが発見されています。
グァルネリ家の軋轢
長男であるピエトロが去ってしまったために、クレモナのグァルネリ工房は弟であるジュゼッペ・グァルネリ・フィリウス・アンドレア(Giuseppe Guarneri filius Andrea)の手に渡ることになります。
父アンドレアの生前から、ピエトロが弟フィリウス・アンドレアと遺産の分配をめぐり、兄弟間でもめていたことはフィリウス・アンドレア1716年作『セルデェ』を取り上げた際にお話ししました。
これは、もともとアンドレアが長男であるピエトロよりもフィリウス・アンドレアに有利な遺言書をしたためたからです。遺言には「(ピエトロは)親元を離れてからというもの親孝行などをしてくれたためしがなく」、「家にいるころから恩知らず」、さらには「価値ある品々を持ち去った」とアンドレアの苦い思いが綴られています。酷い言われようですね。フィリウス・アンドレアに対しては、「常に忠実で、年老いた自分を決して見捨てることなく、楽器作りに貢献してくれた」と感謝の気持ちが述べられています。
兄弟が和解にいたったのは、なんと父親が亡くなってから10年後の1708年のことでした。長い年月がかかってしまったのは、遺産を受け継いだはずのフィリウス・アンドレアがピエトロに約束した賠償金を支払えなかったからです。
ピエトロ・オブ・マントゥア:音楽家と製作者の融合
ピエトロは1720年3月26日に永眠しています。残念なことにピエトロの子供が彼の跡を継ぐことはありませんでした。マントヴァで活動した製作者、アントニオ・ザノッティ(Antonio Zanotti)、カミロ・カミリ(Camillo Camilli)、トマッソ・バラストリエリ(Tomasso Balastrieri)の三人の作品には、ピエトロからの影響が見受けられますが、直接ピエトロに指導を受けた可能性は極めて低いです。唯一、ピエトロの弟子として記録にあるのは、ディオニシオ(Dionisio)と戸籍簿に名が残された人物のみですが、この製作者のその後は分かっていません。
ピエトロの死直後に記録された目録によると、工房には彼自身のヴァイオリンだけではなく、他の製作者による様々な楽器が残されていました。ヴィオラ・ダ・ガンバ、ギター、リュート、ハープなど、その種類は多様です。ピエトロによって作られたとみられる弓も記録に残っています。
また、生前の彼には市内での弦の独占販売権を与えられていました。彼が残した作品の数からも、メーカーとしての仕事よりも小売業としての仕事の方が多かったのではないかと推測されます。
プロの演奏家として活動しながら楽器店を営み、そして仕事の合間にヴァイオリンや弓を作るという実に多忙な日々を送っていたピエトロ・オブ・マントゥア。もしも、彼がヴァイオリンの製作だけに一身を捧げていれば・・・と思わざるをえませんが、演奏家として楽器を知り尽くしていたからこそ、彼独自のユニークな作品の数々が生まれたのでしょう。