木村哲也
バイオリン製作家

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【名器のお話し】ジュゼッペ・グァルネリ・フィリウス・アンドレア 1712年 チェロ

『セルデェ』という名器と共にこちらの記事で取り上げたジュゼッペ・グァルネリ・フィリウス・アンドレア (Giuseppe Guarneri filius Andrea)は非常に優れたチェロをいくつか残しています。今回は、彼が1712年に製作したチェロをご紹介します。

腕利きの職人ではあったものの…

アマティの伝統を父アンドレア・グァルネリ (AndreaGuarneri)から直々に受け継いだジュゼッペ・グァルネリ・フィリウス・アンドレア。グァルネリ・デル・ジェス (Guarneri del Gesù)の父親である彼は、職人としての腕前は確かだったものの、残念ながら商売人としての才能に欠けていました。

そんな彼は、近所に引越しをしてきたライバル、アントニオ・ストラディヴァリ (Antonio Stradivari)に太刀打ち出来ず、常にお金に困りながら生活していくことになります。

『セルデェ』の記事でお話ししたように、1715年、フィリウス・アンドレアは多額の借金をレオナルド・ローラと呼ばれる鍛冶屋からしています。

そして二年後の1717年、フィリウス・アンドレアの跡継ぎとなるべきだったピエトロ・オブ・ヴェニス (Pietro ”of Venice” Guarneri)は故郷クレモナを離れ、ヴェネチアへと旅立って行きました。兄であるピエトロが家を去ったことにより、若きデル・ジェスがグァルネリ家の跡継ぎとして父フィリウス・アンドレアに鍛えられることになりました。

デル・ジェスというと、彼が晩年生み出したワイルドな作品から、風変わりで近寄りがたい人物を思い浮かべる方が多いかもしれません。しかし、実はかなり社交的な性格の持ち主だったようです。家にこもりがちな難しい職人タイプだったのは父のフィリウス・アンドレアだったようで、デル・ジェスはそんな父親に代わり様々なコネを作るのに若いころから熱心でした。

製作者としての腕を上げつつ、社会的にも周囲の人々の信頼を得ていたデル・ジェス。頼りになる右腕として、フィリウス・アンドレアも期待を寄せていたのではないでしょうか。

しかし、1722年、デル・ジェスはカタリーナ・ロタと結婚すると同時に、兄と同じようにグァルネリの家を離れてしまいます。この時24歳だったデル・ジェスは、結婚を機会に家業に見切りをつけて何か別のことを始めようと思ったのでしょう。この後しばらくデル・ジェスは楽器を作っていません。

©Stradivari Trust

借金につぐ借金

ピエトロに続き、デル・ジェスまでもが工房を去ってしまい、フィリウス・アンドレアはかなり落胆したのでしょう。跡継ぎがいなくなり、働く気も失せてしまったのか、1722年以降フィリウス・アンドレアが製作した楽器は極めて少数です。もっとも、楽器を作るにしても必要な材料を購入するお金がなかったのかもしれませんが。

ローラからの借金の返済期限はデル・ジェスが去った前年の1721年でした。もちろん、利息を払うだけで精一杯だったフィリウス・アンドレアが、この期限を守れるわけがありません。結局、このお金を返すためにフィリウス・アンドレアは1728年にさらなる借金をしています。借金を返すための借金。まさに泥沼にはまっていったと言って良いでしょう。

お金を貸してくれたのは靴屋のジョヴァンニ・オッティーナ。利息を減らすためにフィリウス・アンドレアはオッティーナに家の一部を貸す契約を交わしています。

オッティーナが使用することになったのは四部屋ほどです。そんなに部屋が空いていたのならお金のためにさっさと賃貸すれば良かったのに、と思ってしまいますよね。隣接した二件の建物からなるグァルネリの家は広く、実際にアンドレア・グァルネリがまだ生きていたころには幾つかの部屋が借用されていましたが、フィリウス・アンドレアが跡を継いでからは一族の者のみに使用されていました。

二人の息子が家を出ていってからも空き部屋を貸し出そうとしなかったのは、いつかデル・ジェスが跡継ぎとして戻って来ることを切に願っていたからかもしれません。しかし、オッティーナとの契約のために、その可能性はゼロになりました。

この契約が結ばれた直後にデル・ジェスはクレモナの古ぼけた宿屋をリースし、リフォームするプロジェクトを始めています。オッティーナが、生まれ育った家に引越しをしてくることが分かり、自分の帰る場所がなくなったがための行動ともとれますが、どうでしょうか。もともと家を継ぐ気があったのなら、カタリーナと結婚した時点で家を出るようなまねはしなかったことでしょう。

©Stradivari Trust

病に倒れたフィリウス・アンドレア

1730年、フィリウス・アンドレアは病に倒れ、病院に担ぎ込まれます。同年の春に記された戸籍簿には彼が「入院中」だと記されています。当時、病院に入院することはほぼ確実な「死」を意味していました。しかし、奇跡的にもフィリウス・アンドレアは死のふちから生還を果たします。病床から回復はしたものの、もちろんすぐに社会復帰ができたわけではなく、工房からはしばらくの間遠ざかるをえませんでした。

ヴァイオリン作りから遠ざかっていたデル・ジェスが製作を本気で再開したのもちょうどこの頃です。しかし、父親の工房に戻ったわけではありません。

フィリウス・アンドレアが再びのみを取ることができたのは二年後の1732年頃のことです。しかし、体力が衰えた彼には以前のようにひとつの楽器を全て一人で完成させることは不可能でした。そこで、フィリウス・アンドレアはデル・ジェスに自分が彫った渦巻きを提供することで仕事を続けていくことになります。

弱った体に鞭を振って息子を支援するために作業を続けたというと聞こえは良いですが、おそらくデル・ジェスがお金を必要としながらも稼ぐ術をなくした父に仕事を与えることで助け舟を出したと考えたほうが自然でしょう。この1732年から1740年の間に作られたデル・ジェスの楽器には、全てフィリウス・アンドレアによって作られた渦巻きが付いています。

フィリウス・アンドレアといえば、この特徴ある渦巻きを連想する方も多いのではないでしょうか。アマティのように綺麗なわけでもなく、ストラディヴァリのように力強くもない、そしてデル・ジェスのようにワイルドなわけでもありません。しかし、彼の作った渦巻きには人を惹きつける何かが存在しています。

©Stradivari Trust

得意としていたチェロ製作

同時代に活躍したストラディヴァリ、そして息子のデル・ジェスと比べると非常に影の薄いフィリウス・アンドレアですが、逆境にもめげず、優れた作品を数多く生み出しています。特に彼の作ったチェロは非常に完成度が高く、その音色を愛するチェリストは数多く存在します。今回ご紹介しているのは、1712年にフィリウス・アンドレアによって作られたチェロです。

フィリウス・アンドレアが得意としていたのは、少し小さめのチェロです。ここで、ストラディヴァリのチェロとそのサイズを比較してみましょう。

Stradivari 1710 Gore-BoothGuarneri filius Andrea 1712
ボディ長756mm724mm
アッパーバウツ342mm361mm
Cバウツ229mm256mm
ローアーバウツ438mm448mm
ストラディヴァリのチェロとグァルネリ・フィリウス・アンドレアのチェロの比較

ストラディヴァリが同時期に作っていたチェロと比べてみると、フィリウス・アンドレアのチェロはボディの全長が短めですが、その分、横に幅広くデザインされているのがよく分かります。砂時計のような体型をしているストラディヴァリのチェロに対し、フィリウス・アンドレアのチェロは家庭的で暖かく、親しみを覚えやすい形をしています。

17世紀の終わり頃からチェロはそれまでメジャーだった大きさから徐々に小型化していきます。当時の音楽シーンでの使われ方の変化を反映したのでしょう。フィリウス・アンドレアは顧客の要望に応え、より扱いやすくするためにこのデザインを考えました。ボディの長さを縮めても、横幅を充分にとれば音色は犠牲にならないことを、長年培った経験から知っていたのでしょう。この短いボディに幅を広くとったデザインのチェロは、その後も数々の製作者によって作られていますが、特に極端なデザインを採用したのはガダニーニです。

このチェロの裏板と側板にはポプラ、渦巻きにはヨーロピアンライムという木が使われています。これらの木材はフィリウス・アンドレアが好んでチェロに使っていました。ストラディヴァリが同じ頃に使っていた外国産のメープルに比べて遥かに安く、手に入りやすかったからでしょう。

このような木材には材料そのものの視覚的インパクトが少ないのですが、それゆえにフィリウス・アンドレアの「彫刻家」としての腕を魅せる舞台としてうまい具合に機能しています。木の表面には使用された道具の跡があちこちに残されていますが、わざとらしさは全くなく、木と争うことなく対話をしながら彫っていったら自然にこうなったというおもむきがあります。無地のキャンバスの上で、のみという筆を自在に操り壮大な風景を描いた。そんな印象を受けます。

死こそは免れたものの、病後のフィリウス・アンドレアの運は一向に向上せず、オッティーナから借金に次ぐ借金を重ねます。住んでいた家はかなり酷い状態にありましたが、必要な修理もオッティーナからの金銭的な援助を受けないと出来ないほどでした。

デル・ジェスの手伝いをするようになってからは一時状況に好転の兆しが見られましたが、それも束の間のこと。1737年、ついにフィリウス・アンドレアは唯一の財産となっていた家の一部、二件の建物のうちの一つを売り渡すことになります。父アンドレアから受け継いだこの家に長らく執着していたフィリウス・アンドレアですが、経済的なプレッシャーに遂に折れました。たまりにたまったオッティーナからの借金を返すにはこの方法しかなかったのでしょう。

これで、オッティーナから借りていたお金は完済できたのですが、フィリウス・アンドレアは、またすぐに別のルートでお金を借り始めるようになります。

©Stradivari Trust

フィリウス・アンドレアの最期

入院するほどの大病を冒してからから十年。結局最後の最後まで貧乏だったフィリウス・アンドレアが遂にあの世へと旅立ったのは、1740年の4月頃のことです。

クレモナからヴェネチアに移住して以来、父親との縁をほぼ断絶していたピエトロ・オブ・ヴェニスですが、フィリウス・アンドレアの死を知るとすぐさま代理人をたて、遺産の処理にあたっています。

フィリウス・アンドレアが残したのは生涯離れることのなかった家、積み重なった借金、そしておそらく工房に残されていた道具のみ。全盛期には一族の誇りであっただろうこの家は、ピエトロとデル・ジェスにより早々と売り払われてしまいました。しかし、売上の半分はフィリウス・アンドレアの借金の支払いに当てられ、父親同様お金に困っていた兄弟の手元にはたいした金額は残りませんでした。

記録にはありませんが、せめてフィリウス・アンドレアが残した道具は兄弟のもとに渡ったと考えたいですね。

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